真心(まごころ)を込めて
掲載日:2020.12.08
前回のコラムは、「心身のゆとりが無くて」とお休みしました。
実は、母が亡くなりました。
亡くなってそれほど日にちが経っていなかった時期だったので、
コラムを書く心のスペースが十分になかったことと、
事後の諸手続きに時間を費やしていました。
母は、認知症でグループホームに入っていました。
職員さんに恵まれ、家族以上に良い関わりをしてもらったと思っています。
入所したばかりの軽度のころには、
「良いところに入れてくれてありがとう」「今が一番幸せ」とよく言っていました。
良くも悪くもお世辞が言えない人で、口にする言葉は本心からだったので、
本当にそう思っていることが伝わってきて嬉しかったです。
ホームの職員さんたちは、みなさんよくやってくださいました。
中でも、一人一人のお年寄りに
真心を込めて向き合ってくれる職員さんがいました。
母に会いに行った時に、母の表情を見ただけで、
姿が見えなくても今日はその方がいるかどうかがわかりました。
母の表情や様子が穏やかなのです。
それは、母が人として大事にされている証拠です。
そして、もちろん母にだけではなく、その方はどのお年寄りに対しても
人として尊重して真心から接しているのがわかりました。
そのような職員さんとのご縁に、心から感謝の気持ちを抱きました。
ホームの経営者が変わり職場環境があまりよろしくないなと感じていた頃、
勝手な言い分ですが、
その方に「辞めないでくださいね」とお願いしたことがありました。
その時に「ヤイさんを最後までお世話させていただきたいと思っているので、
お見送りするまでは辞めません」と言っていただき、
私はその言葉に安心しました。
そんなKさんが、数か月前に、ご自身のお母さまを介護する必要が生じ、
「お約束していたのにごめんなさい」とホームを退職されました。
最後までKさんに母をお願いしたいと思っていましたので、
非常に残念ではありましたが、しかたがありませんでした。
そしてKさんはご自身のお母さまを献身的に介護し、3か月ほど前に見送られました。
母の最期の半年ほどは、そのようにKさんがいないホームでしたが、
他の職員さんたちも身体的に弱っていく母を寝かせきりにはせず、
最後まで口から摂取できるように関わってくださいました。
母は甘酒が大好きでしたので、固形物が食べられなくなると、
職員さんが甘酒を寒天で固めたものをよく食べさせてくれました。
認知症以外は身体的な問題はなく、薬も服用していませんでした。
亡くなる1週間ほど前から食事も飲み物も摂取できなくなりました。
延命治療は望まないことを伝えてあった訪問診療のお医者さんから
「そろそろだと思います」と告げられました。
コロナ感染者が急激に増加する直前だったので、
ホームの配慮で私は母の枕もとで時間を過ごすことができました。
意識が薄らいでいく母と、十分にお別れの時間を持つことができました。
その翌日に母に会いに行こうとしていた妹たちは、
コロナ感染者急増のため入室の許可が出ず、枕元でのお別れができませんでした。
それでも母は、私たち誰にとっても最適なタイミングで旅立って行きました。
私は1週間のトレーニングを心置きなく終了でき、
妹たちや私の娘は予定していた旅行を楽しんでから、母は旅立ってくれました。
私が願った通り、痛みも苦しみもなく、静かに自然に命を終えました。
お医者さんも「理想の亡くなり方でしたね」と言ってくださいました。
死亡診断書の死亡理由には、「老衰」と記されました。
おかあさん、あっぱれ!です。
認知症であったことも、私には不思議なほど否定的な気持ちがありません。
恵まれた家庭で育った苦労知らずの母が、やんちゃな父をステキと思い、
決まっていたお見合いを蹴って、駆け落ち同然に北海道に来てみれば、
ステキと思っていた夫はすさまじいDV夫で、そこから母の苦労が始まりました。
誰一人知り合いのいない北海道で、DV夫に殴られ蹴られながら、
実家に帰ることもできず、次々と4人の子どもが生まれました。
お手伝いさんや子守りさんがいた実家では家事をすることもなかったお嬢さん育ちの母は、
今思えば色々な意味で本当に大変で心細く辛い日々を送ったことだろうと思います。
そのように辛かった母の数十年を、認知症は一気に消し去ってくれました。
認知症になってからの母は、見事なほど辛い日々を忘れ去っていました。
母から辛かったことや恨み言などを訴えられたことは一度もありません。
認知症になってからの母の口から出る言葉は、
「良かった~」「嬉しい!」「ありがとう」そんな言葉ばかりでした。
訪問診療に付き添ってきてくれる看護師さんが
「ヤイさんのところに来ると私、癒されます」といつも言ってくださいました。
もちろん、認知症の初期には、色々なことを忘れていく自分に対して
辛い気持ちはあったと思います。
でも、母にとって一番辛かった長い時期をきれいに忘れられたことを、
私は心から神さまに感謝しています。
晩年、私のことも誰のこともわからなくなった母が、
父の写真に微笑みかけたり話しかけたりしている様子を見て、
「やっぱり父は母の好みのタイプだったんだな」と微笑ましく思いました。
たしかに父は、DVを除けば、かなり魅力的な人ではありました。
DVの父と、それによって心が歪んでいった母。
それが私の両親です。
父から暴力を受けていた子ども時代やヒステリックな母からの精神的支配の時期には、
「何でこんな親の元に生まれたのだろう」と、親を、人生を恨み続けていました。
そして、いろいろあって、今の私は、事実は事実として受け止めながらも、
あの両親の子どもだったからこそ、そしてあの過酷な体験をしてきたからこそ、
今の私がこんなに幸せで充実した人生を歩んでいられると思っています。
私は過酷な体験に潰されず、すべてを糧にして今を生きています。
そして今は、辛い思いを抱えている方がその体験に潰されたり歪められたりせずに、
そのことを糧に人として豊かに生きていくことを応援するようなお仕事を
させていただいています。
今の私は、あの個性的な父と母がいてこその私と思っています。
母の「お別れの会」は、宗教も形式も取り入れず、よその人には知らせず、
葬儀場のステキな雰囲気の少人数のお部屋でたくさんの花に囲まれて
まさに「親族のみ」で行いました。
Kさんにだけは母が亡くなったことを知らせました。
「一目、お別れをさせてください」と連絡がきました。
家族以上に母を大切にしてくださったKさんに母とお別れをしてもらうことは、
こちらからお願いしたいことでした。
私からKさんのことを聞いていた親族全員が大歓迎でした。
お通夜の前にKさんは隣町から駆けつけてくださいました。
冷たくなった母の頬をなでながら涙を流してくださるKさんには、
しばらく母と二人きりの時間を過ごしていただきました。
母は亡くなるまでの準備をたっぷりとさせてくれたので、
私は様々なシーンの母の写真を集めておくことができました。
お通夜に当たる時間には、私のパソコンを持ち込み、部屋のテレビに繋げ
たくさんの母の写真をスライドショーで見ながらみんなで思い出話に浸りました。
涙あり笑いありのとても温かな時間を過ごすことができました。
翌日の出棺の前には、母の棺にたくさんの花や思い出の写真を入れました。
その時にも駆けつけてくれたKさんには、花ばかりでなく
母の好物だった甘酒を、Kさんの手で入れてもらいました。
Kさんに最後まで関わってもらい、母はきっと喜んだと思います。
Kさんのような職員さんがいて母を大事にしてくれるグループホームを見つけ、
最後まで人間らしい生き方亡くなり方を支えてくれるお医者さんを見つけ、
温かい心で満たされる「お別れの会」を準備し、
参加した誰もが「良い時間だったね」と言ってくれる中で、
母とお別れをすることができました。
そのすべてを母はきっと喜んでくれたと思います。
元気なころに母がよく口にしていた言葉は、「真心を込めてね」でした。
おかあさん、私はすべてを真心を込めてやったよ。
辛かった思い出は記憶からこぼれ落ち、
本来の、ちょっぴりプライドが高く、そして心優しい母が最期に残りました。
ピンクのセーターを着て微笑んでいる遺影の母が、
本来の母そのものだと思える幸せな日々を今は過ごしています。