沖縄
掲載日:2016.03.14
二十代のころの私は、毎年この時期に沖縄の離島に行き、ひと足お先にこんがりと焼いてくるのが楽しみでした。三十年以上前の離島はまだリゾート化されておらず、白い砂浜と優しい碧の海が静かに迎えてくれる場所でした。
石垣島を中心とする日本最西端の与那国島や有人の最南端の波照間島などを含む有人無人の島々からなるエリアを八重山諸島と言います。20代の私のお気に入りは竹富島でした。北海道の海では唇が紫色になってしまう私にとって、竹富島の星砂の浜辺と暖かい海そして水牛がゆったりと歩く景色と時間は天国のようでした。
20代に竹富島に魅せられていたことなどすっかり忘れ、誰かに言うこともありませんでした。そして我が娘が20代になり、彼女が魅せられたのは波照間島でした。八重山諸島に魅せられて通い続けたり移住してしまう人たちを、愛を込めて『八重山菌感染者』と感染者同士で言うことがよくあります。娘も、いつの間にかそうなっていたようです。娘にとっては第二の家族ともいえる人たちが波照間島にいます。私と娘にとって大切な場所としての沖縄があります。
私にとってそんな場所だった沖縄が変化したのは、ここ数年のことです。2年前にも辺野古や嘉手納基地などに行き、さまざまな沖縄の人たちの声を聞いてきました。その後、翁長さんが知事になり彼の言動がメディアで頻繁に取り上げられるようになりました。沖縄で今何が起きているのかもっと知りたいと思うようになりました。
年末に障害のある友人から「沖縄に一緒に行ってほしい」と頼まれました。「沖縄の今を知りたい。」友人と私の思いは同じでした。そんな私たちにカンパをしてくれる人も現れて、4月に行くことに決めました。
この3ヶ月間、仕事の合間に沖縄に関する本を読みあさりました。「翁長が沖縄をダメにする」という論調のものも含め、できるだけ偏らずに読んでみようと思いました。歴史・文化・政治経済・・・これまで知らなかった沖縄がそこにありました。沖縄の人たちの苦しみや悲しみも知らず、リゾート地としてしか見ていなかった自分を今恥ずかしく、そして申し訳なく思っています。
太平洋戦争で、県民の4人に1人が亡くなったこと(これは一つの家族の中で誰かが亡くなったことに相当すると思います)。戦後、日本が繁栄をしている間も長い間、日本から切り離されてアメリカの統治下に置かれていたこと。日本の0.6%の面積の沖縄に、今も在日米軍専用施設の74%があるということ。等々。
何だか福島の現実と重なりました。3・11の前後で、東日本大震災の関連報道が多くなされました。原発事故により放射能汚染された土壌を削り取ったフレコンバックという黒い袋が、福島の生活圏のあちこちに積み上げられていました。住民の方が、「それを毎日見て過ごすことが悲しい」と言っているのを聞きました。
何で福島の人たちにばかり押し付けられているんだろう・・・?それはそのまま、沖縄にばかり基地があることと重なりました。放射能で汚染されたものも米軍基地も、どうしても日本のどこかで引き受けなければならないなら、特定の地域にばかり負担をさせずに日本中で分け合って引き受ければいいと私は思います。
素朴で温かい福島や沖縄の人たちにだけ原発事故の負担や米軍基地の負担をさせて、他の地域に住んでいる私たちは辛いところはよそに押し付け、そこから生み出される益だけを享受している。
そんな現状の中で、沖縄では自民党政治家のサラブレッドと言われ自民党県連幹事長まで務めていた翁長さんが知事になり、彼を先頭にして多くの沖縄人が、国の決めた辺野古基地に断固として抗っている現実があります。
沖縄の今を見て聞いて感じて、今度こそその思いに寄り添いたいと思います。