愛情を注がれずに育った人は、他者を愛することに困難を抱える
掲載日:2018.10.30
この社会にはさまざまな理不尽なことがあふれていることを、
思い知らされたり思い出されたりすることがあります。
世界に目を向ければ、パレスチナやシリアやイラク、南米、ロヒンギャ・・・・・。
書いてしまえば1行で済むけれど、そこには私たちと同じ人間が生きて苦しんでいる・・・。
きっと私たちが知らないだけで、世界中でもっと多くの人たちが理不尽に傷つけられているのでしょう。
そこに対して私は何もできないから、それを思うと辛すぎるから、
「世界で傷ついている人たち」のことは、今の私は棚上げさせてもらっています。
せめて国内のこと、沖縄の人たちのことや公害や薬害、震災や原発事故、
様々な災害で辛い状況に置かれている人たちのことは、
「自分と関係ない」ことではないと感じながら過ごしています。
そこに対しても今の私は何もできないけれど、せめて「他人事」ではなく「自分ごと」と感じることで、
少しだけ許してもらえるのではないかと勝手に思っています。
それら「国内のこと」は、この国の指導者の意向次第で
解決やより良い方向に持っていくことができる問題だと思います。
苦しんでいる人たちがそれ以上苦しまなくて済むようにできるはずです。
だから今の私はせめてこのコラムで書いたり身近な人たちとの話題にしたりして、
より多くの人たちがそれらの問題に関心を持ってもらえるように微力ながら努めています。
伝えていくこと、気づいてもらうこと、意識的になってもらうことが、解決への力になると思っています。
立派なジャーナリストでなくても、平凡な一般人であっても、そういうことはできると思っています。
そんな私が、「社会問題」にもならないもっと身近な問題に、心を曇らせています。
それは、気づけば何十年ものあいだ私の心を覆っていることです。
「家族」の問題です。
これまで何度も書いてきたし、今もたくさん書きたいことはあるけれど、今回は一つだけにします。
「家族の問題における理不尽さ」
それは、「愛情を注がれて育った人は、とても自然に他者に愛情を注げる」ということ。
そして、「愛情を注がれずに育った人は、他者を愛することに困難を抱える」ということ。
乱暴すぎる表現ですが、シンプルに言うとそういうことです。
幸せに育った人は、周りの人たちに愛されやすい。
愛情をほとんど受け取れなかった人は、周りの人とのコミュニケーションに困難を抱き苦しむことが多い。
愛情に恵まれた人は大人になっても良き伴侶を得て愛情豊かな家庭を育むことに恵まれやすい。
愛情に恵まれなかった人は、本人にとってあまり好ましくない人と不適切な関係
(共依存関係や暴力や搾取の関係など)を持ちがちになる。
そのような事例をたくさん聞いている中で、
たまに「親からの愛情が適切に注がれなかった人」がとても良いパートナーと巡り合って、
そこから自分たちの幸せな家族を作る努力をしていることを知ると、本当にうれしく感じます。
20年以上前に児童養護施設で出会った子どもたちのことも時々思い出されます。
特に、暴力という方法でしかコミュニケーションのしかたを知らなかった子たちのことを思うと、
あの子たちは今どんな人生を歩んでいるのだろう、
良いパートナーや理解者と巡り合って幸せに暮らしていてほしいと願わずにはいられません。
親に暴力を振るわれ否定され続け、辛く過酷な年月を過ごした子どもたちは、
大人になったらその分、人に愛されて幸せに暮らすという人生逆転劇を、
神さまは用意してくれないかなと思います。
社会の目に留まり、児童相談所の扱いや児童養護施設に入所や里親委託されるという子どもたちは、
虐待されている子どもたちの氷山の一角だと思います。
私たちの目に留まらず、「家族」の中で辛い思いを強いられ深く心を傷つけられている子どもたちは、
実はものすごく多いと感じています。
そのような子どもが大人になって、私という人間とご縁がつながることがあります。
相談者さんたちの苦しみを聞いていると、「家族」とか「愛情」という言葉で子どもを自分の思うままに支配する
親の身勝手さや暴力性に突き当たります。
他人を、自分を信じられなくて、人間関係をうまく築けなくて苦しんでいる人たちが、
せめてここからは明るい未来に踏み出していけるように、
ご縁のつながった人たちには私の出来る限りで関わらせていただこうと思っています。
この社会から「理不尽」の駒を一つでもひっくり返していきたい。
辛い思いをしてきた人には、その体験を糧に、より味わい深い人生を歩んでいただきたいと
心から願っています。