心が疲れる理由

掲載日:2020.06.09


前回、「心が疲れてしまった」と書きました。
そのせいで、「何があったの?」と心配させてしまった方もいたようです。

でも、「ご心配なく」です。
誰でも、意識しているかしていないかの違いがあるだけで、心や体が疲れている時はあります。

特に、新型コロナウィルスに関連した情報や現状そして自粛生活によって、
気づかないうちにストレスを受けていた方は多いと思います。
私は、「自分の心が疲れている」と意識できたので、自分にムリをかけない選択をしました。

前回コラムをお休みした理由は2つあります。
実際に疲れていたので、「ムリをしない」という選択をしたことと、
もう一つは、みなさんにも「ムリをしないでほしい」という思いを伝えたいというのもありました。

コラムは私にとって「お仕事」ではありませんが、
私のコラムを楽しみにしてくれている人たちがいることも知っています。

「お仕事」ではありませんが、常に「誰か」の役に立てたらいいなという気持ちで書いています。
それは、読む人のタイミングや状況によって、
「ピンときたり」、「大切なことに気づいたり」することもあるでしょう。
人によっては、「意味がない」と感じられることもあるでしょう。

時には、誰かの「モヤモヤ」や「怒り」を代弁するような時もありますし、
逆に気持ちを「モヤモヤさせる」ことで自分に気づくきっかけにしてほしい
という意図を持って書いていることもあります。

その時、「すべての人の期待に応えよう」という気持ちは持たないようにしています。
「10人のうち1人の役に立てたらいい」というくらいの気持ちで書いています。
これは、「人の期待に応えたい」という気持ちをつい持ってしまう
私の「心の癖」を自覚しているからです。

そしてもう一つの私の落とし穴は、「期待に応え続けなければならない」
という気持ちに取り込まれることです。

他人の期待値はどんどん上がっていき、
期待通りの結果を出さないとがっかりされます。
だからと言って、期待に応え続けようとすると、自分がしんどくなっていきます。

「期待に応えよう」と頑張って結果が出て人が喜んでくれることは
自分の「喜び」になるので、この「思い癖」は割とやっかいなのです。

「やりたくてやっている」時と「しなければならない」との区別が必要です。
「やりたくてやっている」時には、自分がそうしたいだけなので人のことはあまり意識していません。
でも、「しなければいけない」に駆られている時には、
他者の期待(圧力)を(自分が勝手に)感じて追い込まれていく感じです。

この「他者からの期待に応えたい」気持ちは、
このコラムを読んでくれている人にはけっこうあるような気がします。
それで、まずは私から「疲れているからコラム休むね」と言ってみようと思いました。

私のつたないコラムであっても、書くのには数時間かかります。
内容によっては10時間以上かけることもあります。
今回は、その数時間をかけるには疲れていて、
「コラムを書くことをパスしたい」と思いました。

パスしたら、わざわざコラムを読みに来てくれた人が「がっかりする」だろう。
「人をがっかりさせたくない」=「期待に応え続けたい」私。
「苦しくても疲れていても、誰かの役に立つ何かを書かなければならない」

そんなループにはまりそうな私を感じました。
そこで、今回は身をもって自分の課題にチャレンジしました。
「みなさんをがっかりさせても、疲れている自分を大事にする」

実行してみると、これは私にとってけっこうチャレンジでした。
「私はこんなにも人をがっかりさせることが苦手なんだ」と改めて自覚します。

たいした内容でもないので、みなさんのがっかり度もそう大きくはないはずなのに、
それでも落ち着かなくなる自分がいることに、改めて苦笑します。

今回は、そんな私の「練習問題」にお付き合いいただいたというわけです。

あなたには、この「練習問題」は必要ですか?無用でしょうか?

さて、ここで私の「心が疲れた」理由についても少し触れておきますね。
それはやはり新型コロナウィルスの件で
多くの人たちが辛い状況に追い込まれていることと関係しています。

私はSNSはしないので、そこからのマイナスな感情は受け取らずに済みます。
でも、ニュースなどで、様々な職種や立場の人たちが仕事や住むところを失ったり
収入が激減する様子を見聞きすると、
その人たちの辛い気持ちや明日への不安や恐怖などを感じてしまいます。

私の体質として、体と心の両方で「人の感情」を受け止めてしまいます。
これはうまく説明することが難しいところだと感じているので、
誤解されることを恐れ、躊躇する自分もいますが、書いてみます。

体の方は、たぶん普通の人よりもミラーニューロンが発達しているのだと思います。
これは、良いとか悪いとかいうことではなくて、私はそういう体質だということです。
たとえテレビの画面を通してであっても、人の悲しい顔を見ると同じ悲しみを感じます。
これは、私の脳の中の相手の脳と同じ場所が反応するメカニズムのようです。

このような「体の反応」に加え、気持ちも「共感」しやすい体質なので、
辛い気持ちの人たちの存在は、私を辛い気持ちにさせます。

皆さんも辛い状況の人たちへの共感はあると思いますが、
私の場合には普通よりも強くその反応が起きます。

セッションをしている時にもこの反応は起きます。
でもそれは、自分で「それでいい」と思っています。

相手の人の悲しみや辛さをその時間一緒に抱えることで、
その人の負担が一時軽くなり、自分を取り戻していく一助になるなら、
「それでいい」と思っています。

辛さや悲しみだけではなく、その人の喜びや希望や夢を共有することで、
その人がより力強く自分らしい人生を歩んでいくことを後押しすることにもなります。

ですから、セッションをしている時に自分の「特性」を使うことは、むしろ「喜び」です。
そして、そんな時には、私は適切に「境界線」をひけています。
必要以上に自分を痛めないし、傷んだ時にはそれを自分で癒すことができます。

こんなふうに「自分のギフト」と感じる特性が、
今の社会の中で多くの苦しむ人の存在を感じると、
私にとってはマイナスに作用します。

「痛みや苦しみを同じように感じてしまう」ことに加え、
「自分はその人たちに何も役に立てない」という無力感も、
私の「心と体」が辛くなる要因でもあると思います。

こんな自分を守るには、「自分ではどうしようもない状況」に対して
適切に境界線を保つことなのだと思っています。

ニュースを見なくても死にはしないのだから、
時には「ニュース断ち」も必要と思っています。
(でも、やってみると、これがけっこう難しい。)

世界中でこんなにも多くの人たちが苦しみや困難に直面している場面に遭遇することは
私の人生でこれまでになかったので、
自分の特質がうまく対処できずに疲れてしまいましたが、
今の私はそこに気づいたので、なんとか対処し始めています。

だからもう大丈夫です。
今回の件で、私は更にバージョンアップした感じです。

「自分の特性」を、自分を痛めることにではなく、誰かのために使えたら、
神さまもこの「ギフト」を私にくださったことを喜んでくれると思うので、
適切に活かしていきたいと思います。

そして、私自身のことはそのようにして守ることができますが、
やはり今苦しんでいる人たちのことは見ないふり、無かったことにはできません。
早く何とか支援して、希望を感じられる人生を歩めるようになってほしいと思います。

しかし、今の政府のやり方を見ていると、
コロナ対策や支援事業にかこつけて
自分たちとつながりのある企業に多額のお金が落ちるような仕組みをまず作っていた
ということに、驚きと憤りを禁じえません。

アベノマスク、10万円の特定定額給付金事業、持続化給付金事業、GoToキャンペーン事業・・・。
内実を知れば知るほど、相変わらず「国民のことより
自分たちとつながりのある企業にお金が流れることが優先されていた」ことに、
憤りというか悲しささえ感じます。

もしかすると、私の心が疲れる一番の理由は、ここにあるのかもしれません。

「安倍総理も頑張っているのだから、お疲れさまを言おう」というメッセージもあったと聞きます。
でも、私は安倍総理にはとてもそんな気持ちにはなれません。

「お疲れさま」や「ありがとう」を言うなら、野党の人たちに言いたいです。

自民党の議員の中にも政治家としての志を持って仕事をしている人たちがいますし、
野党の議員の中にもしょうもない議員がごろごろいることも知っています。

野党議員が全員良い仕事をしているわけではありませんが、
本当に国民のために仕事をしようという志を持った野党の人たちが
各事業のお金の流れや使い道をチェックしておかしなところを追求して、
本当に必要としている人たちのところに適切にお金が使われるように頑張ってくれているおかげで、
政府や官僚が画策したおかしなお金の流れを少しでも修正できていると思います。

「それが仕事なのだから当たり前」とは言え、
その「当たり前な仕事」をしている政治家や官僚が少ない今、
国民のための公正な事業や施策のために頑張ってくれている
議員だけでなくその活動を支えている縁の下の力持ちの方たちに、
本当に「お疲れさま」「ありがとう」と言いたいです。

どこかの国の首相たちのように、
国民の痛みを共に感じ、国民のために行動してくれる、
更には他国の人たちの痛みや切実な訴えにも心を動かし
差別や圧政にも声を上げ行動してくれる、
そんな誇らしいトップが日本にもほしいなと感じるのは私だけでしょうか。

本当に困っている人たちへの支援のために、
一生懸命に生きようとしている人たちが希望を失わずにすむ社会のために、
私たちが心から安心して生きていける社会のために、
政治家や官僚は良心に従って仕事をしてほしいと切に願います。