幸せの理由

掲載日:2020.02.18


前回のコラムでは、「私は今、とても幸せです」と書きました。

コラムを読んだ方は、「そんなに恵まれた平穏な毎日なのね」と思ったかもしれません。
でも、「私が感じる幸せ」は、「世間が思う幸せ」と一致はしないかもしれません。

私が幸せを感じられるのは、きっといくつかの理由があると思います。
誰かのお役に立つことがあればと思い、私が幸せでいられる理由を書きますね。

ある人に言われたことがあります。
「離婚してずっと苦労しながら一人で子どもを育ててきたのに、
その子が成人して、やっと楽ができると思ったら、
そんな母を置いて子どもさんは東京へ行き自分の好きなように生きているなんて。
そしてあなたは60歳を過ぎてもまだ働かなくてはならないなんて、可哀そうね」。

「あれれ」と思いました。
私は可哀そうなの?

私は自分を可哀そうだなんて思ったことはありません。
けっこう刺激のある人生であったことは間違いないけれど、
そしてそれなりに苦労というか大変なこともあったけれど、
そんな自分を「可哀そう」と思ったことはありません。

子どもが東京へ行き好きなように生きていることも、「良かった」と思っています。
むしろ「苦労したお母さんを置いて自分だけやりたいことなんてできない」
と思って私のそばにいる選択をしたら、私はその方が苦しいです。

前回も書いたように、私は自分の母が幸せそうではなかったから、
「母を置いて自分だけ幸せになってはいけない」と思い続けていました。

そんな経験から、「私は娘に心配されるような親にはならないでおこう」と思いました。
むしろ私が充実した人生を歩み日々幸せでいることが、
娘が安心して自分の人生を歩んでいくことを阻害せずにいられると思っています。

私は子育ての時には子どもを中心にしてきましたが、
(とは言っても、子どもが小学生の時に私は大学に進学してしまったのですから、
やっぱり自分のやりたいことはその当時からやってきたということですね)
子どもが成人してからは何の遠慮もなく
(とは言っても経済的な制限は大いにありましたが)
自分がやりたいことをやってきました。

そのやりたいことの最終形が、今、一応「仕事」というカテゴリーには入りますが、
世間にある言葉で言うと「カウンセリング」や「セラピー」や「メンタルコーチング」です。

一人一人が、痛みを癒したり、恨みを手放したり、大事なことに気づいたり、
自分の強さや素晴らしさに気づいたり、「自分に合った新しい生き方」を選択していく。

そんなお手伝いができ、
人の輝きや素晴らしさが発露する瞬間を共にできるなんて、
なんて幸せな仕事だろうと思います。

働きたくないのに働かなくてはならないなら「可哀そう」かもしれませんが、
60歳を過ぎても自分のやりたいことをしていられるなんて、
私としては「幸せ」以外何ものでもありません。

私は死ぬまで自分を向上させながら、今の仕事を続けていきたいと思っています。

理想は、死ぬ1週間前まで、たとえベッドの上でもセッションをして、
誰かの人生が今以上に輝いていくことを感じながら幸せに満たされながら
生の灯を終えていきたい。

とうとう声も出なくなって「ああ、もう人生が終わるんだな」「十分生きたな」と感じながら、
残り1週間でゆっくりと朽ちていく・・・。
そんな終わり方が理想です。

まあ、人生希望通りにはいかないかもしれませんが、
一応私の希望として神さまには伝えておこうと思います。

今の私は、年相応に膝や腰が痛かったり、時々痛む子宮筋腫もあります。
疲れやすい病気も抱えています。
経過観察ですが、脳動脈瘤もあります。

でも、それでクヨクヨもしていません。
食事に気を配ったり、運動や質の良い睡眠など、自分ができることはしています。

必要な時が来たら、必要なことをするだけですし、
それが間に合わなかったら、今を精いっぱい生きているので、後悔はしないでしょう。

過ぎてしまってどうしようもない過去を思い煩うこともないですし、
未来なんてどうなるかわからないのですから、あれこれ心配することもありません。
必要と思うことはしながら、「今・この時」を大切に生きています。

お正月に帰ってきた娘とは、考え方や捉え方の違いがあったりして、
残念な気持ちや悲しい気持ちになりました。

でも、そんな時には娘としっかりと話をして、誤解していた部分もわかり、
お互いに「異なる価値観を持った個人」であることを再確認することができ、
仲直りをしました。

私が幸せなのは、そんなふうに「大事にしたい人間関係」は真摯に相手と向き合い、
そこからより良い関係を作り上げていく努力ができるということもあるかもしれません。

そして、自分以外の人との間に、適切な境界線を引いています。
それも「快適に過ごせる=幸せでいる」ことの大きな理由と言えると思います。

他人の人生に必要以上に踏み込まない。
相手が望んでいないのに、首を突っ込んで自分の価値観を押し付けたりしないということですね。

同じように、こちらが望んでいないのに私のことに首を突っ込まれることに「ノー」と言う。
まあ、この「ノーと言う」ことによって人間関係がぎくしゃくすることもありますが、
「ノーという私」を受け入れてくれない人とは人間関係が切れていいと思っています。

ここが皆さん悩ましいところかもしれませんが、
私は友人であっても身内であっても、ここはあまり妥協しませんね。
相手がそれをわかろうとしない場合には、距離を置いたり「さよなら」することもあります。

そのことで非難されることもありますが、
「非難されることを恐れて、相手に踏み込まれることを許す」か、
「そのような人から非難されることは聞き流し、私が私らしくあることを選ぶ」か、です。

その人にとって何が良いのかなんて、誰にも正しい答えがわかるはずがありません。
お互いの生き方を尊重し、望まない時に口出しすることはしない、
という人間関係を持てる人とだけ付き合っていることは、
快適に過ごせる大きな理由だと思います。

違いを認め合えたり尊重し合える人たちと、会話を楽しんだり、
刺激し合ったり高め合ったり・・・、
そんな人間関係の中で生きていることが幸せの大きな理由でしょうね。

あとは、他人の評価を気にしない。他人の評価に心を揺さぶられない。
つまりは自分軸があると言えるかもしれません。

「どうしたら自分軸をしっかりと持てるの?」と思う方もいるかもしれません。
私の場合は、「やりたいことに夢中」だから、
他人のことを気にしている暇がないということかもしれません。

他にも、「好きなことや楽しいことを持っている」ことや、
「認知症になって私のこともわからない母が、穏やかで笑顔でいてくれること」など、
まだまだあります。

特に母のことに関しては、グループホームのスタッフさんがプロフェッショナルであることが大きいです。
どんな仕事でもプロフェッショナルとは、その分野の知識や技術、そしてハート、
すべてにおいて研鑽を重ね実践している人だと思っています。
そんなスタッフの方に母をお任せできていることに心から感謝しています。

そう、私の幸せは、たくさんの人たちに支えられていることを、改めて感じます。

みなさんはどのような人たちに支えられているのでしょう?

そして、どのようなことを大切にして、どのような選択をしているのでしょう?
一つ一つの選択の結果が、今のあなたを作っていると言えるかもしれません。