幸せって…
掲載日:2015.06.15
庭の苺がいつのまにか熟して、今日は甘く新鮮な初物を8ついただきました。
いくつかのことが終了して、やっとゆとりのある毎日が戻ってきました。ラブはそんな私の状況を察知してか「遊んで、遊んで」を連発です。「ラブ、私ヒマな訳ではないのよ」。セッションもあるし、本も読みたいし、一応家事もするし、草取りもね。せめてラブが草取りをしてくれるとうれしいんだけどな…。このコラムを書いているあいだも、最近ハマっていた“バスルームでの卓球の玉で一人サッカー”に飽きて、何度も中断させられます。「そろそろお昼寝してくれないかな~」と思い、かと言ってお昼寝が長いと「そろそろ起きてくれないと夜が大変だぞ!」とか、まるで子育ての時のようです。
そんなふうに過ごしてきたこの1週間、私けっこう幸せを感じることが多かった気がします。
人が幸せを感じる時って、人によってそれぞれ違うと思います。でも、どんな人でも共通して幸せを感じることができるのは、『誰かの役にたった時』もっと言えば『誰かのために心を込めた時』ではないかと私は思っています。
『誰かの役にたてた時』。それは具体的に目に見えての貢献の時もあります。自分のしたことに対して「ありがとう」を言われることは、とてもうれしいことです。さらに言えば、その相手に「この私が」「そうしたのだ」と気づかれなくても、相手のことを思って誠意を込めて何かをすることによっておのずと成されることもあるような気がします。相手に感謝されることはもちろんうれしいことだけれど、たとえ相手に気づかれなくても「私がその人に対して誠意を尽くした」という事実が、誰かに認められたり満たされたりするのではなく、自分自身が満たされることなのだろうと思います。
いいかげんな仕事をしていてもけっこう良い給料をもらえたり、ずるいことや人をおとしめて自分が得をするようなことも世の中には残念ながら少なくないようです。一見するとそれは「ラッキー」だったり「お得」のように思われるかもしれませんが、本当のところはどうなのでしょう。
正しいことや美しい行為が素直に報われる社会であってほしいと願っています。でも、たとえ表面的には報われなかったとしても、その人の『生』においてはそうあることは『美しい』と私は感じています。
『相手や物事に対して誠実であるということは、自分自身の生に対して誠実であること』という気がします。だから相手に認められるかどうかはあまり関係がなく(とは言っても、感謝されたらやっぱりうれしいですけどね)、自分の『今この時を心を込めて生きる』ということが真の意味で自分自身を満たすような気がします。
先週、私はご縁があった人たちに、心を込めて考えたり行動したり祈ったりした時間が多かったような気がします。「これと言って大きな出来事があった訳ではないのに、いつも心が満たされていたな~」と振り返った時に、気づいたことです。『心を込める誰かがいる』『心を込めてする何かがある』ということは、幸せなことですね。