「揺らぐ」ということ

掲載日:2022.12.06


今回のテーマは「揺らぐ」ということ。
地震などで体が揺れるのとは違い、心や気持ちの揺らぎについて最近感じたことです。

先日、「飯塚事件」を検証する番組を観ました。
みっしりと濃いCM無しの2時間半の番組です。

冤罪の疑いがありながら、被告はすでに死刑が執行されている事件です。
中途半端な気持ちで観ることは許されないような気がして、
むしろ居住まいを正して観なければならない気がして、
なかなかそのように自分を整えられなくて、
2時間半も落ち着いた時間を確保することも難しくて、
録画してからしばらく手を付けられなかった番組です。

「飯塚事件」とは、30年ほど前に福岡県飯塚市で2人の小学一年生の女児が行方不明になり、
翌日に同県甘木市(現:朝倉市)の八丁峠で他殺体となって発見された事件です。
久間 三千年(くま みちとし)被告は一貫して無実を主張していましたが、
死刑確定から2年後という早さで死刑を執行されました。

その事件を、様々な立場の人たちの証言を通して検証する番組でした。
どちらの立場に偏ることもなく、誠実に事件を追った良質な番組でした。

「彼が犯人であることは間違いない」と断言する警察関係者。
「証拠」として提示されたものに対して疑問を呈する弁護士たち。
今も久間被告を信じ、「警察の正義を信じたい」という被告の妻。
その当時に記事を書いた記者や、のちに検証記事を書いた記者たち。
DNA鑑定を行った研究者や技官。
目撃者を含め様々な人たちの声を、どちらの側にも偏らずに伝えていたように思います。

そのような中で私が一番惹かれた人物が、西日本新聞の管理職の人でした。
彼は捜査の進捗につれて揺れる自分の気持ちを正直に伝えてくれていました。

ご自分の立場からすれば「断言」が必要な場面もあったかもしれないのですが、
彼はその都度の自分の迷いや揺れを話してくれていました。

弁護側も警察・検察側も、それぞれの「正義」をかかげ強く主張するのは当然であり、
そうしなければ「自分たちが信じる正義」を貫くことはできないと思います。

それを理解した上でなお、私は西日本新聞の彼の在り方に心を惹かれました。
「断言」しきれないところに身を置くことのしんどさに立ち続けている。

色々な情報が出てくる都度、気持ちが揺れる。

警察関係者の中には、多少の不安や疑問を持ちながらも、
自分が感じているそれらを抑え込むように強く主張する人も見うけられました。

その姿勢は「結論ありき」で、
その結論=「久間被告が犯人である」を導き出すために
証拠や過去の出来事を「結論」に合致するかしないかで取捨選択していくことにつながり、
事実に誠実ではないように感じました。

それに比べて、一つ一つ示されていく事柄に対してその都度気持ちが揺れ、
そこから真実に迫ろうとする西日本新聞の彼の姿勢は、私には誠実に感じられました。

揺れるのは、彼の気持ちが弱いからでも、その事柄といい加減に向き合っているからでもなく、
断言しきれないその揺れの中で自分の考えや判断を探っていく、
そのような向き合い方だと私には感じられました。

「揺れる」ことは、「ぶれる」こととは違うと思います。
「不確かなこと」の中に誠実に身を置いて、揺れながら「より確かなこと」に近づいていく試み。
それが「揺れる」ことなのだろうと思います。

私たちは不安な時、強い言葉で主張したり断言する人に安心感を抱くことがあるかもしれません。
あるいは逆に強い反発心を抱く人もいるかもしれません。

「揺れる」所に立ち続けることは、けっこうきついことなので、
明確に断言してくれる人がいると、そのきつさから解放されると感じて
断言する人を欲するかもしれません。

しかし同時にそれは、自分で考えたり感じたりすることを放棄することに通じるかもしれません。

私は安易に「断言」したり強く「正義を振りかざす」人に、少し気後れします。
ちょっと危険を感じて距離を置きたくなります。

むしろ「揺れながら」本質にたどり着こうとしている人の側に立ちたい気がします。

そして私自身も、時に断言したくなる時もあります
(もちろん断言がいつも悪いわけではありません)が、
そんな時でも別の視点や立場からその物事を見直すことを意識的にしていきたいと、
今回の番組を観て改めて思いました。

人の強さや弱さは、強く主張することとは関係ありません。
むしろ「揺らぐ」ことの出来る人が、本当の意味で強く、
レジリアンス(しなやかな回復力)を携えていると思います。

私もそういう人間になっていきたいと思います。