天狗の鼻が痛い
掲載日:2022.06.21
5月の連休の海外研修が終わって、復習しようと思いつつ、
何もできずにすでに1か月以上が経ってしまいました。
まあ、知識の部分は、半分以上はすでに知っていたことだったので、
期待した割には満足感が乏しかったというのが正直なところです。
この間、研修で何を学んだかはあまり思い出せないのですが、
「どんなことがあったか」は印象に残っています。
夜の部では、毎日3時間かけて3人一組でセッションの練習をしました。
毎回メンバーが変わるのですが、私のセッションはかなり高評価でした。
これを読んだだけで、何かモヤっとしたものを感じませんか?
そうなんです。
私、その高評価のおかげで、知らず知らずのうちに天狗になっていったようです。
ただし、真っ先にあったのは、クライアントさんたちへの感謝でした。
「練習」というのは、教わったやり方でお互いにその合意に元に行います。
だから自分もクライアント役の相手の人も、予測の範囲でのセッションです。
それに比べたら、普段私がしているセッションは、
その日にクライアントさんから出てくるテーマは何になるかわかりませんから、
予測が全くつきません。
どこからどのように飛んでくるかわからない球を次々と受け止め、
そこから相手にとって価値ある球を受け取りやすく返すようなものです。
それに比べたら練習のセッションは、
飛んでくる球の大きさも方向もわかっているものを受け止めるという感じです。
例えが適切ではないかもしれませんが、
乗馬で言うと、「練習」は乗馬クラブの調教された馬に乗るようなもの。
実際のクライアントさんとのセッションは、野生の馬に乗るようなものです。
乗馬クラブの馬に乗るのも楽しいかもしれないけど、
鞍もついていない野生の馬に懸命に向き合って乗れるようになり、
やがては人馬一体となって原野を疾走する喜びは、
馬と人間とが対等に心を合わせた「最高の瞬間」を味わう体験です。
私は日々、そんなふうにクライアントさんに鍛えられて
セッション筋肉がマッチョになっているので、
プロ同士の練習では力を発揮できたのだと思われます。
さて、私が「天狗になっていった」ところに話を戻します。
練習が終わるたびに「こんなすごいセッションを受けたのは初めて!」とか、
「これまでの人生で一番感動的なセッションでした」とか、
「今のセッションで私の人生が変わるような気がする」などと、
毎回のようにクライアント役の人たちから高い評価をいただきました。
現役の臨床心理士・公認心理士や精神科医たちから
「紀代子さんのセッションは素晴らしい!」と毎回のように絶賛されたら、
「てへへ、私ってそんなにすごいのかも」という勘違い街道を
真っ逆さまに落ちていくのも時間の問題でした。
うっすらと自覚はありました。
「いい気にならないようにしよう」「謙虚さを忘れないように」と、
時々自戒をしていたつもりでしたが、今思えば薄っぺらなものだったのだと思います。
そしてついに、ぐいぐい伸びた天狗の鼻を思い切り打ちつける日がきました。
そうですね、例えるならば、普通のドアを通ろうとして、
鼻が長すぎて「ドアに思い切りぶつけた」という感じです。
痛い!痛い!
具体的に言うと、某カウンセリングサイトからご紹介をいただいたセッションで、
天狗になっていた私はその方に十分に寄り添うことができなかったということです。
天狗の自分に酔っていたところからその方と向き合ったということです。
こう書いていても恥ずかしくて、無かったことにしてしまいたい気持ちです。
本当に、その方には申し訳ないことをしたと思います。
あえてここにこう書くことによって、二度と天狗にならないように自分を戒めています。
でも正直言って自信がありません。
バカな私は、またこの痛みを忘れて天狗になる可能性があります。
どうしたら二度と天狗にならず、
ただひたすらクライアントさんの人生のためにその場に一緒にいられるか、
今、一生懸命に考えているところです。
クライアントさんのより良い人生のために自分がここにいることを忘れず、
自分の持っているすべてをその瞬間にクライアントさんのために使い切ることを
忘れずにいたい。
それさえ忘れなければ、天狗になることはないでしょう。
これまでもそうしていたつもりですが、
これからは更に強くそこにコミットしてセッションに臨みたいと思います。
私は、クライアントさんのより良い人生のために自分がここにいることを忘れず、
自分の持っているすべてをその瞬間にクライアントさんのために使うことを誓います。
みなさんに向けてこうして誓いの言葉を書くことによって、
私はそう簡単にこの誓いを破れなくなるような気がして、
恥ずかしながらここに宣言させていただきます。
みなさんに宣言した私は、自分を律していきます。