親の不適切な関わり
掲載日:2021.06.22
庭のハスカップがぷっくりと実をつけて、毎朝の収穫が楽しみです。
今の季節、昼間の時間が長くて好きです。
朝は早くから明るくて、猫たちが4時前から騒ぎだすのは「ちょっと勘弁してよ」だけど、
基本的には朝早く起きるのは好きです。
余談ですが、うちの「サチ」は、4時頃から私の寝室の前で「起きてよ~」と可愛い声で
(サチは見かけはオッサンですが、声だけは可愛いのです)甘えて私を起こす割には、
私が根負けして起きると、満足したように自分は納戸のベッドで眠り始めます。
何なんだよ!
逆に「こじ」は、私が夜早く寝ると、寝室の前で「まだ遊んでよ~!」と
けっこうカン高い声でしばらく主張しています。
放っておくと、二匹で運動会が始まり、しばらくするとやっと静かになります。
まあ、猫の身勝手さは今さら始まったことではないし、
こんなふうに自分勝手に生きている猫と暮らすことは、
逆に気を使わなくていいので、私にとっては気楽です。
犬はね~。犬はご主人さまに対して誠実ですよね。
犬は大好きですが、犬の誠実さの前では、
「こんな不誠実な私でごめんなさい」って気持ちになってしまうことがあります。
ムリに人に合わせたくなくて自分のペースで自由に暮らしたい私には、
同じように自由に生きている猫たちと暮らす方が気楽なんです。
でも、犬とも暮らしたいな~。
本当は、犬とも暮らせたら、もっと幸せだな~。
幼いころの私の夢は「ジャングルの洞穴でライオンと暮らすこと」でした。
もう少し大きくなると、ケガや病気の動物たちを助けられる「獣医さんになりたい」でした。
やがて、たくさんの動物たちと仲良くしている「ムツゴロウさん」があこがれの人になりました。
なんだか話がどんどん脱線していくので、戻しますね。
今の季節は日が長くて嬉しいという話をしていました。
そして、これからは少しずつ日が短くなっていくんですね。
特に、夕方、暗くなるのが早くなっていく時、私はちょっぴり気持ちが落ちます。
冬の日の短さには悲しくなります。
とは言え、今はまだ十分日が長いので、残念さを先取りしていてはもったいない。
今のこの季節を喜びと共に満喫したいと思います。
気温が高くなってくると、風通しのために家々の窓が開きます。
本州では、窓を閉めてクーラーが活躍すると思いますが、
北海道は、まだ窓が開けば十分です。
そして、開いた窓から、その家々の生活音が聞こえてきます。
食器の音や子どもが弾くピアノの音、昼風呂のお父さんの鼻歌なんかも聞こえてきます。
歩きながら聞こえてくる声や音に微笑ましく耳を澄ましちゃったりします。
でも、聞こえてくるのは嬉しく微笑ましく感じる音や声だけではありません。
お母さんが、保育園か幼稚園か小学校低学年か、
そんな小さな子を叱責している声が聞こえてくる時もあります。
幼い子に大人の理屈を交えて執拗に攻め立てている声を耳にすると、胸が痛くなります。
子どもはどんな思いでそこにいるのでしょう。
チャイムを押して「お母さん、やめて!」と言いに行きたくなります。
でも見ず知らずの私が突然押しかけて行っても、
良くて一時はやめてくれるかもしれませんが、
そのお母さんの態度がそれで変わることはないと思います。
児相に通告するほどの「虐待」でもありません。
児相の職員や家庭児童相談員が訪問したとしても、
事態が良くなるとは思えません。
「お前のせいで恥をかいた!」と、子どもが更にきつく当たられるのが目に見えるようです。
下手に介入すれば、窓を閉めて外に音が漏れないようにと、
かえって他人に気づかれないようにされてしまう可能性が高いです。
本当は、そんなお母さんに丁寧に関わっていくことができればいいですが、
今はそんな社会システムも十分ではないし、
児相や町の職員もそこまで余裕はないし、
そのスキルや認識を持った人も圧倒的に少ないと思います。
明確な「虐待」ではないけれど、子どもの心を傷つけていくことが
どれほどその人生を損なっていくか。
「虐待」というと、身体的暴力や激しい言葉の暴力、ネグレクトや性暴力、
そんなことが浮かびます。
でも、そんな明確にカテゴリー分けできない「不適切な養育」の中に、
大人になってからの生きづらさの根が育っていることを
私たちはもっと認識する必要があると思います。
私のクライアントさんからよく聞く言葉があります。
「ちゃんと育ててもらって、習い事もさせてもらい大学まで行かせてもらいました」
「虐待を受けたことはなく、ちゃんとした普通の家庭で恵まれて育ちました」
だったらなぜリストカットをしたり、摂食障害があったり、解離をしたり、
そうしたくないと思っているのに他人を強く叱責したりするのでしょう?
突然抑えられない怒りを爆発させてしまうのでしょう?
自分の限界以上に頑張ってしまうのでしょう?
どうしていつも人の目が気になるのでしょう?
人に気を使いすぎて疲れてしまうのでしょう?
職場で叱責されると、頭が真っ白になってしまうのでしょう?
人間関係がうまくいかないのでしょう?
どうして頻繁に「うつ」になるのでしょう。
なぜ常に「死んでしまいたい」と思うのでしょう?
明確な「虐待」ではなくても、
育つプロセスで親から「不適切な関わり」をされ続けると、
子どもの柔らかな心は傷つけられ、それは年月をかけて蓄積され、
深い傷となって生きづらさへと繋がっていきます。
例えば、「ひどい暴力を受けた」なら、それは本人にも他人にも「虐待」だとわかります。
他人は助けようとするでしょう。
本人は「ひどいことをされた」と認識することができます。
怒りや憎しみを感じることもできます。
でも、「不適切な関わり」は、とても分かりづらい。
本人にも他人にも分かりづらい。
だから助けてもらえないし、本人も原因がわからず苦しい。
苦しみだけが放置される。
こういう状況にある子どもたちをどう救っていくか、
社会の大きな課題であると思います。
私自身も、どうしたらいいのか、何ができるのかを
もう少し考えていきたいと思っています。
今日のところは、ひとまず問題提起にしておきます。
みんなで考えていきたい課題です。