毒親を持った人は…
掲載日:2020.09.01
私ははじめのころ、「毒親」という言葉を使うことにためらいがありました。
いくらひどい親でも「毒」という言葉を使うことには抵抗を感じました。
しかし、何年も「親に苦しむ人たち」からの相談を受けるうちに、
子どもにとって「毒」でしかない親が、この社会にはけっこう多く存在するのだと
認めざるをえなくなりました。
身勝手で、「子どもを自分のために使用する」
「子どもは親である自分の思い通りに動くことが当たり前」
「子どもは自分の欲求を満たすための存在」としか見ていない親が確かに存在します。
子どもの幸せなんて考えていない親が存在します。
そんな親を持って苦しんでいる人たちと出会って最初に伝えることは、
「親とあなたは、別な人生を歩む別な人」という当たり前のことです。
だから「あなたが『自分の人生を歩みたい』と思うことは、決して間違っていない」
むしろ「あなたが自分の人生を生きたいと願うことは当然のこと」だと伝えます。
毒親に苦しんでいる人は、この
「親と自分は、別の人間」ということが明確にできていないことが多いです。
それは、本人にとっては仕方のないことだと思います。
子どものころから、大半の事柄を親の言うとおりにすることを強いられ、
それに反発や疑問を感じる余白さえ与えられず、
たとえ感じたとしても、「そう感じるお前が間違っている」「お前がおかしい」
と言われ続けていれば、やがては「自分の感じ方がおかしいいんだ」と
思い込むようになるか、あるいは「何も感じない」ようになっていきます。
感じたり考えたりすることを否定され続けていれば、
自分で感じたり考えたりすることを放棄し、親の言うままになっていきます。
しかし、どうしたってやはり「親とは別の人間」なのです。
自分のではない「別の人の人生のために生きていく」ことは、
自分の根源のところが悲鳴をあげます。
「生きづらさ」を感じながら生きている人の多くは、
この「根源」のところが悲鳴を上げて苦しんでいるのです。
「なぜ自分はこんなに生きづらさを感じながら生きているのか」がわからないまま来た人は、
「その原因が親にあるんだ」と気づいただけで、とても安心します。
それは例えば、体調がとても悪い状態が長く続いて苦しんでいた人が、
「体調が悪い原因は、○○ですよ」と、病名がわかって安心するようなものです。
回復するためには、まずは正しい病名がわかることは第一歩です。
でも、病名がわかっただけでは、その苦しみは解消されません。
その病気に合った治療がなされて初めて、苦しみや辛さが解消されます。
それと同じで、「生きづらさの原因が親にあった」とわかることは、
原因もわからず苦しんでいたところからは一歩前進ですが、
それだけでは苦しみから抜け出せることにはなりません。
ここからは、その人の症状に合った治療を行うように、
その人に合ったセッションを受けることが大事になります。
「毒親」と言っても、千差万別です。
「我が子に、こんなことまでするのか!」「犯罪でしかない」と
思わざるをえない事例もよくあります。
それは十分に痛ましいことではありますが、
そのような事例は、「ひどい!」と誰の目にもわかり、
本人も「ひどいことをされた」と自覚しやすいものです。
わかりづらいのは、「言葉によって支配をされてきた」人たちです。
親によって「洗脳」に近い状況に置かれていて、
「自分で考える・感じる」ことを放棄させられてきた人たちは、
「本当は自分はどう感じているのか」がよくわからない、
ということがしばしばあります。
長期にわたる精神的支配のせいで、自分が感じていることがわからないだけでなく、
辛かった色々なことを心の奥深くに沈め、その上を頑丈なコンクリートで蓋をして
決して浮上しないようにしています。
それは、子ども時代には「自分を守るために」、
「自分の心が壊れてしまわないために」必要なことでした。
そうやって子どもは何とか生きてきました。
でも、心の奥底に沈めたものは、そのまま静まることはありません。
「沈められて、無かったことにされたもの」は、本人の奥深くで、叫び、のたうちまわっています。
それが「生きづらさ」として感じられるのです。
生きづらさを解消して、その人の「本来の人生」を取り戻していくためには、
その重い重いコンクリートの蓋を開けて
奥底に沈めたものを表に出してやるしかありません。
それは、一人でできることではありません。
本人は、そこに「沈められたものがある」ことにさえ気づいていないことが多いのですから。
重い蓋は、これまでその人を守るために頑張ってきたので、
誰かが開けようとするとものすごい抵抗が起きます。
それでも無理に開けてしまうと、その人の心が壊れてしまう可能性があります。
ですから、本人に過度な負担をかけないように細心の注意を払いながら、
その蓋を少しずつずらしながら、中にあるものを少しずつ解放してやる必要があります。
それをしていくと、人間関係が楽になっていったり、苦しみが軽くなっていきます。
ちょっとしたきっかけで突然怒りが爆発して周りの人たちに驚かれたり、
「子どもには自分の親とは違う関わりをしよう」と思っているのに、
気づくと「親と同じように、子どもを非難したり支配している」ことはよくあります。
そうならないように、自分の代でこの負の連鎖を断ち切ろうと決意して、
少しずつ「自分の人生」を取り戻している人たちがいます。
最初の一歩は、「自分で考えること」や「自分なりの感じ方」をすることを
自分に許可し、それをするところからです。
本人は気づいていないことが多いのですが、
最初のうちは自動反応的に「親の考え」が出てきます。
深いところで「親から言われ続けたこと」に縛られているので、
「自分の考え」のようでいて「親色に染められた答え」しか返ってこない人もいます。
ずっと長いあいだ、「親はどう思うか」「何を望んでいるのか」に意識を向けてきたので、
「自分は?」がとても難しいのです。
こうやって「自分」に意識を向けてもらうと同時に、
親とは距離を取ったり、「境界線」を引くことを身につけていきます。
それまで不適切に張り付いていた「親」と「自分」を、適切に切り分けていきます。
それも最初のうちはなかなか難しい人が多いです。
親の方も、これまで自分の言いなりだった娘が突然言うことを聞かなくなると、
逆上することがよくあります。
「おかしな宗教に入った」と言われることもよくあります。
親の逆上の仕方もいろいろです。
怒りのラインやメールや電話をしてくることは、よくあります。
親からの連絡を見ただけでパニックになったり、過呼吸を起こす人もいます。
本人にだけではなく、職場や隣近所にまで電話をしてくる親もいます。
親戚や友人知人、隣近所の人たちに、「娘がいかに人でなしか」を触れ回る親もいます。
そうやって「強く」出る親もいれば、「弱さ」を使って娘を引き戻そうとする親もいます。
病気になったり入院したりして、「私が親を病気にしてしまった」と娘の罪悪感を突いてきます。
親は娘を自分の支配下に取り戻すためには、手段を選びません。
親の逆上にあうと、1人ではなかなか耐えるのが難しいです。
「耐え切れず親の支配のもとに戻って行く」人も、残念ながらこれまでいました。
以後は、「自分の人生をあきらめて、辛くても親に人生を捧げる道」を歩んでいきます。
そんな時、せっかくご縁が繋がった人が「自分の幸せの道」を歩むことを
支え切ることができなかったことを、心から申し訳ないと思います。
「不本意ながらも自分の人生を放棄して毒親の元に戻っていく人」がこれ以上出ないように、
私はもっともっと「支える力」をつけたいと願って精進しています。
精神的に支えられて親からの反撃に踏みとどまっていられると、
しばらくの間は親は「あの手この手」を使って娘を自分の手に取り戻そうとしますが、
やがて、どんなに強く出ても弱く出ても、娘がこれまでのようには戻ってこないと悟ります。
そこで初めて「自分が変わらなければ、娘は戻ってこない」と悟る親も少数ですがいます。
それまでの「やりたい放題」だった自分の言動を反省し、直そうと試みる親は
関係改善の可能性があります。
そこで、「親が変わるのなら、親子としてやり直そう」という気持ちになる人もいれば、
これまでの親の仕打ちを考えると「絶対に親子関係を戻したくない」と思う人もいます。
どちらを選ぶかは、ご本人と親とのそれまでの経緯によります。
私が「どちらがいい」とは言いませんし、言えません。
私ができるのは、「どちらの選択をすると、自分にとって良いか」を
十分に考えたり、感じたり、判断したりするお手伝いをすることです。
そのように、親との適切な距離を取ることをサポートすると同時に、
ご本人の心にある「痛みのケア」にも取り組んでいきます。
「自分で気づいている痛みや辛さ」だけでなく、
「自分では気づいていないけれど、実はそれが生きづらさの元である痛み」を
丁寧に確認しながら癒していきます。
そうやって少しずつステップを踏んでいくと、
徐々に「自分」と繋がっていくことができます。
やがて「その人らしいイキイキとした人生」が見えてきます。
「この人は本来、こういう輝きを持っていたんだ」と
一緒に驚き、喜び合える瞬間が訪れます。
改めて「毒親を持った人」「親に苦しんでいる人」に伝えたいことは、
「親との適切な距離を取る」ことと「ご自身の心のケア」をすれば、
「あなたの人生は取り戻すことができる」ということです。
どうかあきらめないで、あなたの人生を生きるための一歩を踏み出してください。
親にゆがめられた人生を修復し、「自分本来の人生」を歩み直して幸せをつかんでください。
それは、あなたの「決意」次第で可能となるのですから。