ダーク紀代子

掲載日:2020.06.23


さまざまな自粛要請が解除され、社会は動きを取り戻しつつありますが、
みなさんの気分や生活はどのように変化しましたか?

すっかり解放された気分でいますか?
それとも、相変わらず自粛気味に生活をしているのでしょうか?

残念ながら、コロナ以前のような「無条件でどんなことでもできる世界」
ではなくなってしまいましたね。
その現実は受け入れていかなければならないのだと思います。

「不要不急」と言われていることや「生産性がない」「役に立たない」とされていたことが、
どれほど私たちの日常に喜びや潤いや豊かさをもたらしてくれていたかを痛感しています。
そのような「モノ」や「コト」や「時間」を、有難く愛おしく感じている今日この頃です。

さて、前回のコラムを書いてから、何となくモヤモヤしていました。
「なんでかな~?」と確かめてみると、
引っかかっているところがわかりました。

「誰かの役に立てたらいいなと思ってコラムを書いている」というところです。

もちろんコラムのどこかが誰かの役に立てたら嬉しいけれど、
「役立つこと」がメインで書いているわけではなく、
「自分が書きたいことを書きたいように書いている」ということがメインだと
改めて思いました。

読んでいる人にはどうでもいいことかもしれませんが、
私自身がちょっとモヤモヤしたので、改めてそこは修正させていただきます。

ということで、今回も「書きたいことを書きたいように」書いていきます。

前回のコラムを書いてから気づきに上ってきたことが、ひとつあります。

「コロナで辛い思いをしている人の気持ちに共感して、自分も辛くなる」
というようなことを書きましたが、
実は、「コロナで収入が激減したであろう」知り合いの人たちに対して、
ちょっと小気味よい気分でいる私がいることに気づきました。

知り合いのAさん、Bさん、Cさん、に対しては、
わたくし、「ダーク紀代子」が出現します。

彼らについて、めっちゃ簡単に説明すると、
Aさんは、これまでの私の人生で、陰で何度も意地悪をしてきた人です。
ほぼ接触したことがない人なのですが、なぜか私の足を引っ張りたいらしい。

Bさんは、裏と表がある人で、本人の前ではとても感じが良い人ですが、
本人がいないところでは恐ろしいくらい悪口を言う人です。

Cさんは、才能は非常にある人ですが、頭が良いゆえに、
さりげない形で他人の心をグサリと傷つけるツボを知っている人です。
私は被害を受けたことはありませんが、
傷つけられた人の「痛みで歪んだ顔」を見たことが何度かあります。
しかもその瞬間には何が起こっているか私を含めみんな気づかないという
とても巧妙なやり方をする人です。

そんな人たちなので、個人的には近づかないように距離を取ってきました。
普段は思い出すこともない人たちでしたが、
今回その3人のことが意識に浮上してきたということは、
心のどこかで引っかかっていたのでしょうね。

彼らは仕事柄コロナの影響で収入が激減していることが予想され、
それを思うと、私はちょっと気分が晴れる気がする。
そんな「ダーク紀代子」がいることを白状します。

こんな感じで、何かの拍子に「ダーク紀代子」は出現します。
昔はけっこうたくさんいたような気がしますが、
最近は「イヤな人には近づかない」ので、
「ダーク紀代子」の出番はほとんどなくなってきたような気がします。

今回は久しぶりに「ダーク紀代子」の存在を感じて、
ちょっと懐かしいような妙な気分です。

人間の中には、ダークな部分もブライトな部分も、いろいろありますよね。
そして「ダーク」も、「ダークグレイ」や「ダークブルー」
そして「ダークブラック」なんていうのもあるのかな?
いろいろなグラデーションの自分がいることを感じます。

こんな「ダーク」な自分のことも否定せずに、
たまには「こんな気持ちあるよね」と受け入れてあげると
「ダークちゃん」は気が済むようです。

逆に「こんな悪い気持ちを持っちゃいけない!」なんて否定すると、
「ダークちゃん」は「認められない恨み」をどこかで晴らそうとするようです。

というわけで、今回は私の「ダークちゃん」を「天日干し」してあげました。
すると、「ダークちゃん」、ちっちゃくなって私の胸の中におさまりました。

あなたには「天日干し」したい「ダークちゃん」はいますか?
いるとしたら、どんな「ダークちゃん」でしょうね?

「ダークちゃん」をみつけたら、ちょっとおしゃべりしてみるのもいいかもしれませんね。
「ダークちゃん」には、言いたいことがけっこうありそうですよ。
その言い分に耳を傾けてあげることは、あなたにとってけっこう必要なことかもしれません。

さて、話は全く変わりますが、やはりこのことは書いておきたいと思います。

このコラムを書いている今日、6月23日は「沖縄慰霊の日」です。
6月23日以降にこのコラムを読んだ人も含めて、
少しの時間でもいいので沖縄に思いを寄せてもらえたらと思います。

先の大戦で、「本土を守るために」沖縄だけが地上戦に巻き込まれました。

「沖縄県民の4人に1人が亡くなった」という事実を認識している人は、
日本中でどれだけいるのでしょう。

頭で数字としてではなく、心で感じてほしいのです。
「知っている人の4人に1人が亡くなる」ということを。

あなたが4人家族なら、戦争で家族のうちの1人は亡くなるということです。
友だちが4人いたら、そのうちの1人を亡くすということです。
そのような体験を沖縄の人たちはしてきているのです。

それも遠い昔ではなく、
その悲惨な体験を記憶している「おじい」や「おばあ」が今も生きている、
たった75年前の出来事です。

かくいう私も、若いころにはそのような知識も認識も全くなく、
「沖縄はリゾート地」としか思っていませんでした。

青春時代には毎年のように、無邪気に沖縄の離島に遊びに行っていました。
あの頃、そんな私たちを沖縄の人たちはどんな気持ちで迎えてくれていたのだろうかと、
今の私はその「無邪気さの罪」に胸が痛くなる思いです。

教わるチャンスがなければ、知らなかったとしても仕方がないですよね。
私自身、記憶をたどる限り「沖縄のこと」を教わったことはありません。

意図的なことなのか、それまでのんびりと進められていた日本史の授業は、
「第二次世界大戦」に入ったとたんに時間がないということで駆け足で流され、
ましてや「沖縄地上戦」について教わることはありませんでした。

ある程度の年齢になってから、
報道で時々扱われる「沖縄に関する話題・問題」に疑問や関心を持ち、
「これはどういうことなのだろう?」と調べ始めたのがきっかけです。

だから、せめて少しでも「知るきっかけになれば」と願って、今はこうして書いています。

このコラムを読んだ人が、
今より少しでも沖縄のことを知り、
沖縄の人たちの気持ちに寄り添うようになってもらえたらと願います。

私たち本土の人間たちの身代わりに、沖縄の多くの人たちが傷つき亡くなったことを、
私たちは知っていなければいけないと思います。