目をつぶらず、他人まかせにせず、できることをしていく

掲載日:2017.08.22


この2週間で、広島原爆の日、長崎原爆の日、そして終戦の日と、
鎮魂の思いを新たにする日々が続きました。

テレビでは原爆や戦争の関連番組が(特にNHKで多く)扱われました。
それらを可能な限り録画して、時間をかけてじっくりと観ました。
一つ一つが痛ましく、観るのが辛いものが多かったです
でも、こんな悲惨な状況を体験した人たちがいて、理不尽に奪われた多くの命があって、
その苦しみや悲しみ憤りの延長上に今の私たちの暮らしがあるのだから、
目をそらしてはいけない、せめて私は知っておかなければならないと観続けました。
知っていたことも、更に詳細に知ったことも、初めて知ったことも、ありました。

*満州や朝鮮半島から引き揚げてくる途中で、ソ連兵をはじめとする男たちにレイプされ妊娠をして、
 引き上げ船が日本に近づいた時にそんな自分を恥じて
 海に身を投げて亡くなっていった女性たちが多くいたこと。
*亡くならないまでも、麻酔薬も器具も不十分な中で
 気絶するほどの痛みや苦痛の中で中絶手術を受けた女性たちが多くいたこと。
*引き上げる際に、家族ごと集団ごと自決した人たちがいた一方で、
 その家族や集団を守るためにソ連兵に性処理の対象として差し出された若い娘たちがいたこと。
*日本軍が、中国をはじめアジアの国々の女性たちに性的暴行を行っていたこと。
*細菌兵器を作るために多くの中国人たちを生きたまま実験材料にして殺していた731部隊の中心人物たちが、
 その資料をアメリカに引き渡すことと交換に、罪を問われることなく戦後も日本の主要ポストに就いていたこと。
*731部隊は、ソ連軍が侵攻してきた際に、多くの証拠となる資料を燃やし、研究所は爆破し、
 人体実験をした人たちを焼き殺し、証拠隠滅をはかったこと。
*原爆で即死しなかった人は、血液が体内で破裂して数日をかけて壮絶な痛みと苦しみの中で亡くなっていったこと。
*原爆の被災者が被差別部落出身や遺伝の恐れなど様々な形で差別されたことから、
 長い間原爆被災者であるということを隠し続けて生きてきた人たちが多かったということ。
*終戦後の日本で、「北海道を守るため」として樺太で日本側から仕掛けてソ連軍と戦い、
 その際、戦い方も知らない一般住民たちが竹やりで戦うことを強いられ多くが亡くなったということ。
*南方などさまざまな戦場で、兵士たちの命を命とも思わない無謀な作戦が個人のメンツなどで強行されたこと。
*そこで兵士たちが(一人一人家族があり、人生があった人たちです)、
 今でいうテロ行為で自分の命をかけて敵に打撃を与えることを強いられたり、
 餓死でおびただしい人数が亡くなったこと。
*亡くなった仲間の肉を食べて生き延びた人たちが多数いたということ。

挙げていったらきりがないほどの残虐で悲しいことが、
この日本で、あるいは他国を侵害して行われていたことを、
私たちは直視しなければならないと思います。

悲惨な被害を受けた人でありながら、それを人には言えず隠して生きざるを得なかった人たちが、
実は多く存在したことにも胸を痛めます。

私は常々、日本人がナチスのことを非難することに違和感を抱いていました。
自分の国の軍隊がよその国でしてきた「残虐なこと」を知らされていないから、
他国の批判を大きな顔をしてできるのでしょうね。
極端な言い方をすると、生きたまま人体実験をされて壮絶な苦しみを強いられ続けるくらいなら、
毒ガスで一気に殺されたほうがまだマシだと私は思います。
戦時中の日本人はドイツ人より残虐でなかったと言えるのでしょうか?

ドイツは国として、ナチスがやったことと向き合い反省をしてきました。
二度とあのようなことはしないと強く決意し、教育も徹底しています。

ひるがえって日本はどうでしょう?
自分たちが他国で行ってきた行為をはじめとして、
国民の命を命と扱うこともない無謀な数々の事柄に対しても、
国民に真実を知らせることもなく、責任の所在もあいまいなままです。

誰かを犠牲にして生き延びた人たちは、そのことで苦しみ続けてきました。
自分のしたことやせざるを得なかったことに苦しみ続けるのは一般国民であり、
多くの国民を戦争に駆り立て犠牲にした人たちほど、責任のある人たちほど、
言い訳ばかりして自己正当化や責任逃れに汲々としていたことがわかります。
そんな情けない人たちに、国民は国を任せていたのですね。

そしてそれは、過去のことではなく、現代のこの国でも、
そう変わらないことが起きているように私には思えます。
責任は取らず言い逃れをして逃げ切る。
証拠を無くし、記憶がないと、逃げ切る。
弱い立場のほうに責任を押し付け、張本人は出世したり安泰でいる。

本土を守るために、本土の防波堤として、
北(樺太)と南(沖縄)の多くの住民たちが犠牲を強いられたことを改めて思います。
そして、逃げる時には住民を置き去りにして軍人が列車や船で先に逃げたり、
住民を盾にして軍人は身を守る行為が多かったということです。

戦争にまつわるあらゆることが、すべて「国」や「立場が上の人」を優先して、
国民の命や生活や人生はないがしろにされたことがわかります。

今この国は、一人一人の命や生活や人生を大切にしていると言えるのでしょうか?
今も変わらず「国」や「経済」を優先して、一人一人は後回しのように私には思えてなりません。

十分な反省もなく、責任の所在がうやむやのまま誰もしっかりと責任を取ることなくきてしまった
この日本という国は、また同じことを繰り返しているのですね。

震災の被災者、原発の被災者、薬害の被害者、水俣病など公害の被害者、沖縄の人たち、
そのような人たちの切実な声を十分に受け止めようともせず、
その生活や人生に寄り添うこともせず苦しみを放置したまま、
経済優先、あるいは身近な人たちや思想を共有する人たちを優遇する政治。

今は戦争中ではないけれど、やっていることは、
普通に暮らす人たちの命や生活や人生をないがしろにして
あいかわらず「国」や「特定の人たち」を優先・優遇している。

今、「道徳」教育を通して「愛国心」を育もうとしているこの国。
今の政治家や官僚や教育者のどれだけの人が、子どもに「道徳」を教えられるのでしょう?
「愛」や「尊敬」は、教え込まれたり強制されるものではなく、
個人の内側に自然に生まれてくるものだと思います。
少なくとも私は、過去の日本が行ってきたことも今の日本で行われていることも
「尊敬」もできないし、「素晴らしい国だ」と愛することも悲しいけれどできません。

でも私は、その現状に目をつぶることもしません。
「しかたがない」とあきらめません。
「政治家が悪い」とだけ言って、自分は何もしないという生き方はしません。

私は私のできることを考え続け、行動していきます。
こうしてコラムで意見を表明することも、
いろいろな人たちと話し合うことも、
私のクライアントさんをはじめ関わりのある人たちの人生を大切に
心を込めて向き合っていくことも、
その行動の一つです。

いつか心からこの国を誇りに思うことができ、愛することができるために、
私は自分にできることをしていきます。