沖縄の旅 報告 その3
掲載日:2016.05.18
もう1ヶ月たってしまいましたが、最後の沖縄報告を書きます。
沖縄の旅の5日目は、いよいよ辺野古です。その前に、沖縄戦の激戦地であったという嘉数高台(かかずたかだい)に行きました。ここは、米軍に対し圧倒的不利な状況にもかかわらず日本軍が有利に戦いを進めた場所であったとのことです。
嘉数に投入された隊には京都出身の兵隊さんが多く(約3,500名)そのほとんどが嘉数で戦死したとのことです。行ってみるとわかりますが、本当に狭いところです。そんなに多くの人が亡くなったことなど想像もできないほど狭い場所でした。ここで京都からの兵隊さんを始め日本中から集められた兵隊さんや沖縄の人たちが必死に戦って(戦わされて)命を落としていったのかと思うと、涙が止まりませんでした。ここには、京都出身の兵士を祀る『京都の塔』や、朝鮮半島出身の兵士を祀った『青丘之塔』などいくつかの塔が建てられていました。それらの碑のひとつに刻まれていた言葉を、私もしっかりと胸に刻みました。『平和の波を広げる努力に忠心することを誓います。』
こんな悲しい犠牲の上に今の私たちの生活があることを改めて胸に刻み、本当に戦争のない平和な世界のために自分ができる精一杯の努力をし続けていこうと強く思いました。ここにこうして書いていることも、私なりの努力の一つです。今の私にできることは、『知ること』、そこから『考えること』、『知ったことを伝えること』だと思っています。あとは各自で考えてほしい。大切なことを人任せにせず、みんな一人一人がしっかりと考えていけるようになってほしいと思います。
高台からは普天間基地のオスプレイがはっきりと見えました。
そしていよいよ辺野古です。タクシーの運転手さんに降ろされたのは、辺野古の米軍基地キャンプシュワブゲート前のテント村です。基地の入り口前にいくつものテントが並んでいました。それぞれの感覚で歩いてみようと思い、私は千明を残して先に歩みを進めました。
その場所(テント村)に一歩足を踏み入れた途端、その場の空気が私にはとても不快なものに感じられました。何だかわからないけれど、場の空気というものがやはりあるんですね。不快を通り越して嫌悪感と言ったほうが近いかもしれない。私はそこに沖縄の人たちがいるのだと思っていました。でもどうやら様子が違うような感じがしました。
そこに掲げられている立て看板には、攻撃的な言葉の数々が並んでいました。それを目にするだけで胸が痛くなりました。ある看板には何人もの機動隊の人たちの写真が貼られ、名指しで罵詈雑言が書かれていました。そして「これをネットで拡散しましょう」と添えられていました。個人名や写真を掲げて誹謗中傷をする。こんなことが許されるのかと思いました。そこにあったものは、「平和や沖縄の美しい海を守りたい」という純粋な思いではなく、自分たちと意見が合わない人たちを暴力的にあらゆる手段を使って攻撃するあり方でした。メガホンを持った男性の声に拍手をする人たちの集団。それは暖かい拍手ではなく、人の不幸を喜ぶ拍手でした。テントの前を通るだけで恐ろしさと吐き気がしました。
千明はとっくの間に車に戻っていました。千明も私と同じように感じとてもショックを受けたようで、運転手さんの顔を見たとたんに泣き出してしまったそうです。私は涙も出ませんでした。私の中にあったのは、不快感と嫌悪感と怒りでした。口で「平和を!」と言いながら、どんな方法で人を傷つけてでも自分たちの意思を通そうとする人たちの集団がゲート前に陣取っていると私には感じられました。こんなことを書くと、あの人たちにどんな方法を使って攻撃されるだろうかと恐怖に感じるほどです。
かろうじてあの場にいたまだマシな沖縄の人であろう老人に尋ねたところ、あの場にいる4割は沖縄の人で6割は県外の人だと言っていました。正確な数字かどうかはわかりませんが、少なくとも私にはあれが沖縄の人たちの気持ちを代表するものとはと感じられませんでした。右翼も左翼も、主義主張は違っていてもやっていることは同じ。暴力的・攻撃的で自己中心的なものだと感じました。
辺野古を後にして、その後もあきらめることなくいろんなチャンスを通じて沖縄の人たちに声を聞かせてもらいました。辺野古や米軍基地については、もちろんいろいろな立場があり意見がありました。でも、基地反対の気持ちの人でも、「あのテント村で一緒に活動したいとは思わない」「ああいうやり方でない方法で辺野古の海を守りたい」とみなさんが言っていました。それが沖縄の人たちの本当の声だと思います。右翼も左翼も、自分たちの主張を通すために沖縄問題を利用しているだけだと感じました。みんな、「あの美しい沖縄の海を目の前にしたときに、自分の内側にどんな感覚が起こるか」それをもとに考えたり行動したりしてほしいと思います。大切なことが置き去りにされていると感じました。
最後の2日間はモトブリゾートに滞在しました。私の好きな明るくて碧い海が目の前に広がっていました。ホテルのすぐ裏に、何かの碑がありました。行ってみると、沖縄戦で亡くなられたその地域の人たち数十名の名前が刻まれていました。こんなに美しい場所でも多くの人が亡くなったのだと、改めて沖縄戦の事実に引き戻されました。
沖縄の碧い海を目にするたびに、あの『沖縄戦の図』が目に浮かびます。こんなに碧く美しい海が真っ赤になるほど血が流れ、そこに多くの人たちの死体が浮いていたという事実が沖縄にあったということ。そのことを私たち日本人はみんな知っていなければならないし、忘れてはならないのだと思います。
そこから、いろいろな問題を考えていきたいと思います。